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「マチネの終わりに」は平野啓一郎版「君の名は」

 コルクラボの今月の課題図書が平野啓一郎さんの「マチネの終わりに」だったので、めったに小説を読まないぼくが、果敢にも挑んだ。本当は読む時間も別のことに当てるべきなんだろうけれども、今回はたまたま帰省というミニイベントが発生したので、その移動時間かつ電波があまり使えない時間帯を使って、Amazon Kindleで読み切ることにした。


 正直、始りはのっそりしていた。ハードSFのように設定を理解させるための時間なんだろうと思うが、音楽の知識が全く無いぼくにとってはあのはじまり方はのっそりのっそりと、ぞうが大地を踏みしめるように進めていくしか無かった。ただ、筆力が高いからなのか、不思議と脱落しようという気には一切ならなかった。


 洋子、という女性名は往々にしてミュージシャンを魅了するようだ。この婚約者のいる女性を巡る物語なのだが、90年代の月9よろしく、くっついたり離れたり、邪魔されたりという話の展開がどこか懐かしい。恋愛ものとは常にこうなんだろうけれども。


 マチネの終わりに出会う二人が、純愛だけで最後まで行き着く辺りが、刹那的な時空間でしかその存在意義を主張し得ない、今の若い人との対比で40歳の初婚の恋愛ってきっとこうなんだろうな、そう思った。


 ぼくも恥ずかしながらアラフォーと呼ばれる部類で、未婚だから、この人達の感覚はすごく分かるし、あのときのボタンの掛け違いさえ無ければ、とかなんで拒否されたんだろう、とか色々思うところはあるのだけれど、洋子という人物の内面の動きから、あぁ仕事が出来る女性ってきっとこうなんだな、と思えた。


 最近、甥っ子の成長がめざましく、アルファベットに興味があるらしいし、子タレになってもおかしくないぐらい美少年に育っていた。そういう意味でも、後半に出てくる子どもの存在は鍵になりえるんだけれども、この話の面白いところは、結論としてはそれをすべて超越してしまっている、ということだ。


 結局のところ、人間のありようというのは信頼と信用に比重が大きく、女性性と男性性という性差といわれるべきものなど5回もこなせばどうとでもなるし、それよりもずっと一緒にいて精神的に気持ち良い(落ち着くとか)のかの方がずっと重要なのだ。


 僕は父親とはあまりうまく行っていないので、実家には本当にいても1日程度しかいない。いや、いられない。それは家族なのかな?と思うことがたくさんあるけれども、叱ってくれる人がいないから貴重なんだと思う一方で、相手をずっとしかり続ける必要性も見えないから、やっぱりその空間には戻れないんだろうな、と僕は思っている。


 話は戻る。


 天才ギタリストとか、戦場の女性記者とかいう装飾は本当に最終的にはどうでもよく、キャラクターの作り方とストーリーテリングの有り様と言うのは、たけのこの薄皮をはぐように、キャラクターの本質に差し迫っていくというのが筋なんだろうというのが見て取れた。


 これは平野啓一郎さんの力だけでなく、コルクの佐渡島庸平さんたちの力添えも大きいところだろう。作家と編集のバランスが見事に融合した、消耗されない物語。それが、「マチネの終わりに」だったと思う。


 この本は哲学書や形而上学に近い、そう思った。主人公たちの岐路は、その選択肢が出る度にどちらを選択しても間違いではない。そして、主人公たちはそれが相手が邪魔したことだろうと恨んでもいない。


 これはその二人の